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370年余りの伝統を引き継ぎ 「もてなしの心」を家庭用品に込めて
日常の家庭用品を材料を用い、自らが定めたテーマにそって飾り物を作り上げていく、金津の本陣飾り物。
毎年7月第3土曜日から3日間の金津まつり期間中、各区の本陣に展示される。
先人達の精神を受け継ぎ現代でも作り続けられている。
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■本陣飾り物の特徴
飾り物をこわしても、持ち寄った材料が各家庭で再度使えることが必要とされており「加工や工作をしてはいけない」と今日もよく言われている。
全国でもその歴史と創作美においての評価は高い。
また、最近の話題を題材に選び、町にちなんだ材料をなるべく選び制作されている。
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■本陣飾り物の由来
徳川時代に入ると福井藩主が細呂木に関所を設け、 慶長18年(1623年)には、金津に奉行所を置き行政、司法、警察などの事務を司どった。
福井県指定史跡として今も残る千束の一里塚も、当時は徳川家康の政策として金津宿と細呂木宿の間に作られたもので、旅人の里程の目安と休憩の場として貴重な存在であった。
また、竹田川は金津と三国湊との間に、舟や筏が行き来して、物資の輸送に大きく貢献した。
このように金津は、北陸街道の要所として重要な位置にあったことから、宿場町、商業の町として栄え、
毎年7月に入ると市が並び、坂の下、六日町、八日町 十日町は、市日で大変にぎわった。
文献によると旅篭屋が58軒、20有余の妓楼が軒を つらね多くの遊女がいた宿駅として、問屋、
旅宿、本陣 などがあり、南金津に駅馬30頭が常備されていた。
金津に本陣飾り物が始められたのはこの頃からで、役人が泊まる本陣を、飾り物でねぎらっていたのが、宿場町として商業が栄え、裕福な商人達によって、飾り物への興味が増大し、制作や鑑賞を親しむ風流が、今日の「本陣飾り物」に継承されている。
本陣飾り物の資料として残っているのは、明治20年2月下旬に書かれた「造物趣向 全」(金津町市姫二丁目・生谷氏所蔵)で、これが飾り物に刺激を与え、町民の飾り物に対する関心が一段と深まり、材料も各家庭にある什器、備品などの入手しやすいものを持ち寄って使用し、飾り物をこわしても、それが各家庭で再度使えることが必要であったことは、今日よく言われる「加工や工作をしてはならない」
と言われる原点である。
金津祭に山車が巡行するようになったのは明治30年頃からで、山車が休憩する本陣に、趣向を凝らした飾り物で祭を盛り上げるようになったのもこの頃からで、神社への奉納の意味も含めて、金津祭に錦上花を添えるものとして、今日まで
伝承されてきたことは、まさに金津祭本陣飾り物のルーツ と言える。
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